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日本の主な雛人形の生産地の中でも生産量日本一を誇る埼玉県さいたま市岩槻区(旧岩槻市)

2023年10月21日

雛飾り

日本の主な雛人形の生産地の中でも生産量日本一を誇る埼玉県さいたま市岩槻区(旧岩槻市)

岩槻という地名が歴史に登場するのは、遠く室町時代の昔、江戸城の開祖で有名な太田道灌が、当時は荒れ果てた大沢沼であったこの地に、関八州北部の要塞として岩槻城を築いた時からです。別名は白鶴城と呼ばれ、以来江戸から奥州、北陸道へ通ずる城下町として栄え、知られるようになりました。

その後戦国時代の長い争乱の世を経て、徳川時代に入り、家康をまつる日光東照宮が造営されると、岩槻は江戸・日光間のいわゆる「御成街道」の最初の宿場町となり、いっそう栄えることになったのです。

岩槻人形の起源については二つの説があります。一つは江戸時代寛永年間、徳川家光が日光東照宮造営にあたり、全国からすぐれた工匠を集め、その一人、伏見の人形師、橋本重吉が岩槻で、豊富な桐材と水の良さに目をつけ人形作りを始めたと言う説です。もう一つは、江戸時代元禄年間、東照宮大修理の際、それにあたった京の仏師、恵信が、帰途岩槻で病に倒れ、岩槻藩医戸塚某の治療で回復、そのまま岩槻にとどまり、桐の粉で人形の頭(かしら)を作る方法をあみ出したと言うものです。

いずれにせよ岩槻は、桐の名産地であり、しかも胡粉(ごふん)の溶解および発色を良くするための重要な水に恵まれていたという環境と、江戸という大市場に近いという地の利が人形の発展につながっていることはたしかでしょう。その後幕末には、岩槻人形は岩槻藩の専売品に指定されるほど重要な産業になり、また橋本重兵衛という名人が出て、全国に知れ渡るようになりました。現在、岩槻は、約三千人もの人々が人形づくりにたずさわる日本一の「人形の町」として知られていて、街中に古い人形が飾られるひなめぐり、子どもたちの無病息災を祈る流し雛、見応えのある幅10m、高さ8mの世界一ジャンボ雛段が見れる岩槻まつり、古くなり飾らなくなった人形などをお持ちいただきお焚き上げする人形供養祭などの伝統行事も毎年開催されています。東玉の雛人形を詳しく見る:雛人形TOPはこちら東玉の雛人形を詳しく見る:雛人形TOPはこちら
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さいたま市岩槻区(旧岩槻市)が雛人形の生産に適している理由

太田道灌公が築いた岩槻城の城下町として、また江戸時代には日光御成街道の宿場町として栄えた岩槻は、日本有数の桐の産地として知られた土地でした。人形の原料となる桐材(桐のおがくず)と胡粉の溶解に最適な水に恵まれ、江戸時代以降雛人形作りが盛んに行われるようになりました。雛人形作りに欠かせない桐材と豊富な水に恵まれたことにより日光東照宮の造営・修繕後も腕の確かな工匠が住み着いたこと、江戸から近く商売も成り立ちしやすい立地条件であったこと、また江戸で雛人形ブームが起こったことなどにより岩槻は人形の町として発展しました。

長い歴史と伝統を守り続ける岩槻の雛人形の特徴

岩槻で作られる人形は、筋を彫りいれた胴体に布地を埋め込んでいく「江戸木目込人形」と、衣裳着人形とも呼ばれる「岩槻人形」の二つに大別されます。それぞれ国の伝統的工芸品に指定され、多くの伝統工芸士が活躍しています。手づくりによる温かみのある芸術的で深い味わいが特徴です。

岩槻人形の作り方は、江戸時代に確立された昔ながらの手作業によって作られています。作業は分業制で、まず人形問屋がどんなお雛様を作るか企画を立て、それに基づいて、それぞれ専門の頭師、手足師、着せつけ師、小道具師により、頭、手足、胴(衣裳)、小道具が作られます。最後に人形問屋がそれらを組み立てて完成品となります。よいお人形をできるだけ効率的に作る方法です。

江戸時代から令和へと西欧文化の影響などを受けながら、しかも日本独特の伝統を築き上げてきた人形づくり。時代とともに少しずつ新しい技法が加えられてはいますが、人形に込める人の心はいつの時代にも変りありません。お子様の幸せを祈って丹念に手作りする岩槻の人形師の心、そしてそれをお飾りして大切に慈しむ親の心、それらこそ悠久の昔から受け継がれてきたものです。

雛人形の町「岩槻」で伝統の匠の技を伝え続ける「東玉」

東玉は、人形の町・岩槻に170年余り続いている老舗の人形専門店です。岩槻人形の起源の話に登場する、京の仏師、恵信の病を救った岩槻藩医、戸塚某は、東玉を興した戸塚家の祖先にあたります。戸塚家は代々岩槻藩医を勤める家柄でした。江戸寛永5年(1852年)岩槻藩医を勤めていた戸塚隆軒は、漢方医としての本業の傍ら、当時すでに岩槻で盛んだった人形作りを趣味にしていました。

ある日、その作品を藩主に献上したところ、その出来栄えに大変感服された藩主より“東国における人形の王”という意味で(西では京の人形が有名でした)“東王”という名を賜りました。しかし“王”では恐れ多いとして【東玉】と号することにしました。この隆軒が東玉の初代ということになります。

2代の健次郎、3代の貞造も、医業のかたわら、東玉の名に恥じぬ立派な人形を残しましたが、4代巌に至って人形作りに専念し、事業としても定着・発展させました。以来この由緒ある屋号が戸塚家に代々受け継がれ、現在第七代戸塚大介に引き継がれています。東玉は、今日まで受け継がれてきた人形文化の伝統を踏まえつつ、時代のニーズに合わせた人形を創造し、さらに後世に伝えていくべくさらなる技術の向上を日々目指してまいります。

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